ハイスペック発達障害への道

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『1984年』の感想 (1)――「思想犯罪」について

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

 これから何回かに分けて、当ブログでジョージ・オーウェルの『1984年』について書いていこうかと思う。

 作品のあらすじについては実際に本を読んで確かめていただくとして、ここでは『1984年』の根幹をなす5つの設定についてできるだけ簡潔に論じることとしたい。

  1. 「思想犯罪」(ソートクライム)
  2. 「ビッグ・ブラザー」と「ゴールドスタイン」
  3. 「ニュースピーク」(新語法)
  4. 3つのスローガン
  5. 主人公ウィンストン・スミスは結局何者だったのか

 なお、この感想では底本として旧ハヤカワ文庫版を使っているが、特に支障が無いのであれば以下の新訳版の方が良いだろう。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

作品紹介

〈ビッグ・ブラザー〉率いる党が支配する全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。しかし彼は、以前より完璧な屈従を強いる体制に不満を抱いていた。ある時、奔放な美女ジュリアと出会ったことを契機に、伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが……。(Amazon.co.jpの商品ページより)

本論(ネタバレ注意)

主人公ウィンストンのささやかな反抗

 この恐るべき作品は、主人公であるウィンストン・スミスが日記を付けようとするところから始まる――とだけ書けば、何と言うことはない出だしだ。しかし、あろうことか、彼が住んでいる国家「オセアニア」において、日記を書くことは禁じられているのである。それはその国が全ての記録の類を管理しているからで、いざという時には改竄することも辞さない。整合性の合わなくなった発言には修正が入るし、何らかの事情により「消えてしまった人」は文字通り「最初からいなかったもの」として扱われてしまう。

 日記を付けることは、すなわち体制側(「党」)の手の届かないところに記録を残すことである。 少なくとも、この作品においてはそのような役割を果たしている。もし後で記録文書等を改竄しようとしたところで、日記までを改竄できるわけではない。だからこそ、「党」のやることなすことに疑問を抱きつつあったウィンストンにとって、日記は願ってもない反抗の手がかりになるのであった。最初こそ躊躇していたものの、それからは何とか書き続けるようになっていっている。

 ウィンストンは「日記を書いている」という事実を秘匿しつつも、何かと問題の多い「社会」の成り行きを見守ろうとしている。その際、「反社会的」な意見を耳にしても、特に深く突っ込みを入れるということがない。外での彼は沈黙を押し通すことが多く、余計なことはなかなか口にしない。というのも、国が良しとしている考え以外を抱こうとするだけで「思想犯罪」という罪に問われてしまうからだ。

 この「思想犯罪」は「オセアニア」では大いなる罪とされている。一度犯してしまえば、本来は死刑を越える処罰を受けることとなる。実際、それによって何人もの人が刑務所(作中で言う「愛情省」)送りになり、「適正な処罰」を受けてしまっている。しかし、ウィンストンがなかなか捕まらなかったのは、「思想犯罪」を犯した人を捕らえる「思想警察」の監視の外で日記を付けていたからに他ならない(ただし、実は泳がされているだけだったようなのだが)。

 こうして彼は、日々コツコツと「オセアニア」に対する反抗(犯行)を繰り返しつつ、静かに反撃のチャンスを窺っていた。しかし、ジュリアという女と出会うまでは、物語は急転することなく、ただ日記を書きながら実に退屈な日々を過ごすだけであった。

「思想犯罪」に対するカウンター

 ところで、彼が作中で書き残した日記のうち、以下の文章は見事に本質を捉えている。

自由とは二足す二が四になると言える自由だ。これが容認されるならば、その他のことはすべて容認される。

 たとえ「党」が「二足す二」が「五」であるという旨の発表をしたとしても、「二足す二」が「四」である、と言える権利までが奪われることはない。ウィンストンは「自由」をこのように解釈している。

 ウィンストンの主張したいことは間違っていない。それどころか、少なくとも「思想犯罪」に対する大きなカウンターとなっている。というのも、「思想犯罪」の意味するところは国家ぐるみでの言論封殺もしくは言論統制だからだ。 ここで一つでも「思想犯罪」の例外を作ってしまえば、「思想犯罪」の効力はたちまち消え失せてしまう。彼はこのことを分かっていて「その他のことはすべて容認される」と書いたのではないだろうか。

「思想犯罪」の制度が辿るべき末路

 ウィンストンはまた次のようにも書いている。

思想犯罪は死を伴わぬ。思想犯罪は死そのものだ。

 これも決して軽く見てはいけない言葉だ。「思想犯罪」という制度が行き着くところを端的に示唆している、と私には思える。

「思想犯罪」という制度により、「オセアニア」の人間は「自由」な思考をすることができなくなっている(もう一つ「新語法」という大きな要因があるが、それは後述する)。もしその犯罪をしていると「思想警察」から見なされてしまったら最後、それが意図的だろうとそうでなかろうと、「再教育」を受けることになる。場合によっては主人公と同じ道を辿ることになるのだろう。

 そうなると、「自分で考える」という極めて人間的な行為ができなくなってしまい、国家や組織に服従せざるを得なくなってしまう。また、新しい考えを生み出す機運が全くもって起きなくなる分、国家という巨大組織の進歩も止まり、大きな損失となって返ってくる。

 そういった意味で、「思想犯罪」は個人単位でも組織単位でも結果として死を招くこととなってしまう。この犯罪は死を伴うことはないが、しかし行く先は「人間としての死」なのだ。

「思想犯罪」はそこら中にあふれかえっている

 現在は「言論の自由」「表現の自由」が日本国憲法上保証されてはいるが、この事実をまるで無視しているかのような出来事が日夜繰り返されているように思う。特にこれはTwitterやFacebookなどのSNS、あるいははてなブックマークのようなソーシャルブックマークで顕著だ。

 先ほども出したように、ウィンストンは「二足す二が四である」と言えるのが自由だ、と書いている。それに対し、「党」側の人物であるオブライエンは「二足す二」が「五」と言えるようにならなければならない、という教育を彼に施そうとしている。もし「五」と言えるのでなければ、国家の人間としては一切の権利が認められないという塩梅だ。

 我々はオブライエンと同じことを常日頃からやろうとしている可能性がある、ということを自覚しなければならない。「ラーメンは醤油味でなければならない、その他一切のラーメンは認められない」と同じようなことを本気で思っている人がどれだけ多く見かけてしまうことだろうか。自分の気にくわないものを全て排除しようとすることこそが「思想犯罪」なのである。現在の法律では犯罪にこそならないが、しかし大きな罪を犯していることに変わりはない。

 逆に、「二足す二」が「四」と言って良い、ということを認めるのが「言論の自由」に他ならない。 この自由は言論封殺や思想統制のためにあるのではなく、むしろ自由な議論を促し、国家として進歩しやすいようにするために設けられているのだ。だから、自分たちの気に入らない主張を見かけるときも、制度がうまく機能していると言えるだろう。「言論の自由」を保証している以上は、そういったものも存在するということを認めなければなるまい。

「気に入らないから排除しよう」という、「思想犯罪」を無理矢理作り出そうとする流れだけは、もう止めにして欲しい。